Sunday 12 October 2008

友からの書簡

以前、「日本の純度」と題し京都の友に書簡を送った。その友から返信([淡水録] vol.12 不純な日本人)が届いた。

これが実にトムらしい。

おそらく、Kalafがトムに書いたこととトムがKalafに書いたことは、それぞれ相手の核心にどこかしら触れているに違いない。ただ、その核心をそれぞれが自覚し切れていないため、より正確に言い表せば、実体験として相手ほど持ってはいないため、うまく認識できず、結果応えられないのではないか。

トムは京都という貴重な町に生まれ育ち、そして今またその京都に戻った。Kalafは自分の存在に意識的になり始めた頃から時間とお金さえあれば飛行機に乗った。

この事実は、どの外界を興味の対象とするかにもよるが、多分にどの「近界」をフィルターとするかに影響されているはずだ。良し悪しの問題では決してなく、個人が比較の対象とするフィルターが、あるいは個人を包み込むフィルターが、やはり京都のトムには強く作用しているからゆえだと思う。

この意味で、何の変哲もない首都圏の郊外を成長の環境としたKalafには、生活の中で身近にフィルターを感じることもなく、またトムほどの感度もなく、いつの間にか飛行機の出発地である日本とその着陸地である海外がフィルターとして形成されてきたのであろう。

もう一つ、トムの金子光春の引用からもよく分かる、トムが以前に言った「対象と自分の一対一の関係」について考えることがある。あの話は、Kalafには大変印象的であった。

一方で、Kalafは人一倍、「関係性が広がる可能性」に関心が強いことを自覚している。建築家の安藤忠雄が言った「創造性は、模倣の新しい関係性の中のみに存在する」という言葉をその説明として引用したい。

この「フィルター」と「関係性」という切り口で、冒頭に書いた自覚し切れない核心のことを考えると、それなりの説明は成立するのではないだろうか。

次は「マイアミ」についてか・・・。いや、そもそも「マイアミ」についてだったか・・・。おそらくマイアミについて書くことに追い風が吹かないのは、ここが途中経由地であることが深淵だからなのだと思う。

同じ現象、つまりマイアミを通してアメリカを見ようとする態度をKalafは自覚しており、ただし、マイアミの特殊性が、そしてあらゆる意味でのアメリカの広さがそれを可能にしない息苦しさを感じている。マイアミに真摯に向き合っていない息苦しさなのでもあろう。

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